ゲイリー・ホフマン

Jean-Philippe Collard, La Dolce Volta

色彩のなかで

ジャン=フィリップ・コラールは、演奏している時と同じように立ち振る舞うタイプの音楽家である。その慎み深い所作は、ピアノの前に腰かける寸前まで、そっと光をかすめているのだ。そしてコラールは、彼の演奏を聴きにやって来た人々の心の声に耳を傾け、言葉のない対話、まなざしと無数の音の対話をうながす。

このような聴衆との特異な連携は、演奏会に先立つ一連の“準備”をすっかり覆い隠す。そう、彼もまた、しばし興奮を忘れようとし——舞台に立つ前の午後のひとときの何と長いこと!——、本番を待ち焦がれる体を静め、度胸を誘導し、虚空の中へ飛び込む直前の束の間を支配しようと努めているのだ。それでも結局のところ、全ては状況に任せるしかない。コラールは言う、必要なのは「音楽から切望されること、自らを落ち着かせ、自発性に再び道を譲って聴衆を引き付けること」だと。なぜなら音楽の美を示し伝達する行為は、情熱の域を超えたところにある。つまりそれは、この上ない必然性に根ざしたアプローチであり、その実現のためには、見返りに人心を掌握しようと望むことなく、みずからの感情を分かち合う覚悟を決めなければならないのである。あまたの演奏と録音を通じて、それはやがて一つの巨大な贈り物となりうる。

「演奏を人々の心に届けなければなりません。自分が長年のあいだ耕してきた音楽作品を知的に扱い過ぎてはならないのです」と、コラールは断言する。彼が“耕してきた”レパートリーは、驚くべき“収穫”に結実している。そこにはショパン、シューマンからラフマニノフまで、ロマン派の旗手たちが生んだ果実と、200年にわたるフランス音楽の歴史が詰まっている。

コラールが紡ぐ音世界には、つねに色彩が染み込んでいる。リトレの有名な『フランス語大辞典』が「視覚器官に引き起こされる感覚、諸物質によってさまざまに反射される光」と定義した色彩はしかし、この種の書物には馴染まない快楽主義的な知覚を勧める。それは、まさしく自分が「色彩に飢えている」と語るコラールにとっては、実に馴染み深い感覚である。ただし、色彩なら何でもよいというわけではない。いわば色素までを味わい尽くすコラールは、節度ある音風景がアルペッジョの虹や和音の余韻の中で鳴り響くとき、あらゆるニュアンスを知り尽くしているのだ。コラールは、師ピエール・サンカンのもとでの研鑽、ヴラディミール・ホロヴィッツと育んだ友情、そして卓越した指揮者たちやオーケストラとの世界各地での共演の記憶を辿るとき、自分は全てを聴衆に伝えられるのだと思い返す。そうして彼は、色彩の神々である作曲家たちにオマージュを捧げるのである。

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